ご利用のご案内

 場 所/照國記念館 1 階
 開館時間/午前9時~午後5時(入館は午後4:30まで)
 休 館 日 /12月31日
 入 館 料 /無料

A 海を見ていた島津家と薩摩

鎌倉時代から続く島津家の歴史を映像で紹介します(約8分間)

B 島津重豪の文教政策と博物学

島津齊彬公の曽祖父、25代島津重豪は齊彬公に多くの影響を与えたと言われています。重豪は幼くして父母を亡くし、11歳で家督を継ぎました。しかし、祖父継豊の夫人竹姫(清閑寺大納言熙定の娘、5代将軍徳川綱吉の養女)の養育の影響で、幅広い知識と教養を身につけて成長しました。また、32年間藩主の地位にあり、さらに天保4年(1833)に薨去するまで、数々の政策で薩摩の文化水準の向上に貢献しました。例えば造士館・演武館・医学院を設置して学問を奨励し、また、明持館(天文館)では暦を作らせました。人材育成や出版事業にも力を注いでいます。特に中国語辞典「南山俗語考」や鳥名辞典「鳥名便覧」、動・植物学の百科全書「成形図説」など、博物学に見る見識は驚くべき高さにあることがわかります。そして、齊彬公は、この重豪の影響を受け、西洋文化への関心を持つようになったのです。


   重豪公肖像画(玉里島津家蔵)    重豪筆 無為(尚古集成館蔵)

C 薩摩藩の財政改革

幕府の御手伝い普請の中で、最大規模のものが、薩摩藩に命じられた木曽・長良・揖斐三川の治水工事であると言われています。この治水工事は薩摩藩の財政に大きな打撃を与えました。さらに、恒常的な経費の増加や災害の発生と相まって、藩財政は窮地に陥りました。重豪の命を受けた調所笑左衛門(廣郷)は、支出を切り詰め海外貿易を拡大し、500万両の借入金の250年賦償還法など大胆な政策を実行して、財政を改革しました。これらの政策の成果が齊彬公の諸事業推進の原動力となったのです。


 斉興公肖像画(尚古集成館蔵)   調所笑左衛門肖像画(尚古集成館蔵) 

D 国際視野の形成

海外の文化に深い関心を示した重豪の影響を受け、齊彬公は積極的に海外事情の吸収に努めました。このことは、はじめ世界情勢に疎い人々の理解を得ることができませんでした。しかし、アヘン戦争による英国の勝利は幕府に危機感を与え、英明な齊彬公の登場が望まれるようになりました。嘉永4年(1851)、藩主になった齊彬公は、老中阿部正弘を補佐するとともに、鹿児島の磯に「集成館」と名付けた近代的洋式工場群を設置し、ここを中心として、造船、製鉄、紡績などの様々な事業を推進しました。この事業は「集成館事業」と呼ばれています。



 清国阿片戦争始末に関する聞書       中城王子上国船行列図
    
(尚古集成館蔵)                (尚古集成館蔵) 


E 齊彬公の御事績

西洋の文化や事情に大変関心を持っていた齊彬公は、アジアの大国・清国(中国)がアヘン戦争でイギリスに敗れたことから、西欧諸国の植民地政策を恐れ、早くから日本を西欧諸国と同じように強く豊な国にしたいと考えていました。そこで藩主就任と同時に、集成館を中核とした富国強兵・殖産興業政策を推進しました。大砲製造のための反射炉・溶鉱炉の建設、造船、紡績、ガラス製造など齊彬公の取り組んだ事業はあらゆる分野にわたりました。


 
        薩摩切子             砲弾 左:英国製 右:薩摩製 

F 齊彬公の人となり

文化6年(1809)島津斉興の長男として生まれた齊彬公は、学問を好み、特に母である賢章院からは、人としての道を厳しく教えられたと言われています。また若い頃から多くの優れた人物と交わり、43歳で藩主になってからは、出身地や家柄にとらわれず優秀な人材を育て、彼らの登用にも力を発揮しました。西郷隆盛もその一人であり、齊彬公のことを「お天道様(太陽)のような方だった」と語っています。


   
      齊彬公筆   牡丹               齊彬公愛用の地球儀

企画展(齊彬公と篤姫)

齊彬公は、嘉永3年(1850)、徳川将軍家から13代将軍家定公の正室として、島津家より女子を輿入れさせて欲しいとの意向に従い、嘉永4年(1851)、今泉島津家の忠剛(父斉興の弟)の長女一子(かつこ)を推薦することとなった。一子は当時17歳、齊彬公とは従兄弟同士ということになる。嘉永6年(1853)、一子は齊彬公の養女として、本家に迎えられ、篤姫と称することになった。

 
 
 


津齊彬公
(鶴嶺神社蔵)

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